古来、風水のことは堪輿(かんよ)と呼ばれていました。
堪は天の事で、輿は地を表しています。
つまり、天球(昔はこう考えられていたのです)の様子と、大地は密接に感応しているとみていて
その思想は、易経に記されています。
「在天成象・在地成形・變化見矣」
天にあっては太陽や月などの星の配置や運行をなして、地にあっては山川などの形をなすことで、変化が現れる
ここから風水を堪輿と呼んでいたようです。
そして、天とは天体の運行であり、時を表しています。
ですから、暦を編纂することが時の権力者が行うべき、大事なまつりごとの一つだったわけです。
そして、暦から政治的行事、軍事や表彰、祝い事などを占うようになりました。
また、宗教的な行事、いわゆる祭祀を行ったり冠婚葬祭にも、暦は必要でした。
悪い日に、事を行えばうまくいかないという、当たり前の考え方が暦と結びつき、現代にいたる擇日(たくじつ)の膨大な知識が、発展していきました。
文化大革命まで、擇日、および通書文化は大陸で絶えることはありませんでした。
革命後大陸では風水師など迫害される立場になり、逃げていった台湾、香港で生き残り洗練されていきました。
また地の変化を見ることは、巒頭(地理)風水として、まずはお墓から発展していきました。
貴族や皇帝が、良い墓を作ることで子孫が良い地位を得て、長く富貴を受けられると考えたわけです。
特に、龍穴(りゅうけつ)と呼ばれる、大地の気が集中する場所に、遺体を埋めることで、そんな願いがかなうと信じ、風水師にすばらしい龍穴を探させました。
そのおかげで、四神相応などの地理的条件や、たくさんの龍穴格局が見いだされ、その龍穴に埋葬することで、どんな効果があるかまでを、今日知ることが可能なのです。
やがて、地形ばかりでなく方位をもその対象として、考えていくようになります。
つまりお墓の向きによって、あるいは龍がどちらから来るか、水はどう流れるかなどの方位によって、表れる結果が違っていたのです。
これが、今の理気風水の始まりで、龍法、穴法、砂法、水法という風水技術の発展につながっています。
そして、秦から晋へと移り変わる時の流れで、宮中の学問が、地に流れ民衆のものとなります。
そこから、一般の住居への応用が試みられ、数々の結果を残していきます。
こうして、お墓の技術だった風水が、一般の住居へその範囲を広げました。
お墓の風水を陰宅(いんたく)といい、住居の風水を陽宅(ようたく)と区別し、それぞれが発展していくようになります。
大まかに、このような時の流れで風水、擇日は今日に至ったのです。
巒頭と理気、影響は五分五分ぐらい(私自身は巒頭を重視しています)なので、片一方では効果も半減ですね。
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伝統風水師秀山